「嫌い=排除」じゃなく、嫌いでも許容はしませんか?

多様性 生き方
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こんにちは!意外と言われるのですが…虫を捕まえるのが平気な、よーへい(@campanella225)です。

そんな僕が電車内に迷い込んだ「セミ」を捕まえた時の話をします。この一件で感じたのは、虫一匹を許せないような社会で「多様性」も何もあったもんじゃないなって話。

 

電車内は騒然、一匹のアブラゼミが迷い込んだ!

何が起こったのか?まずは事の流れを書いていきたいと思います。

*  *  *

ある夏の日、仕事帰りの電車内が変な緊張感が漂いつつ、ざわついてもいました。混み具合としては座席が八割くらい埋まっていて、吊り輪に捕まっている人もそこそこ居るような状態。

名古屋の電車内って東京都内に比べてうるさいんですよ(笑)

乗客の多くが大きな声で話してる。なので、この少しざわついている感じっていうのは珍しい状況だと僕は思います。

その時、僕は車両の隅で立っていました。時折、小さく「キャッ」って女性の声が聞こえたり、おじさんの笑い声が聞こえたり…

何だろ?と様子を伺っているとセミが電車内を飛んでいたんですね。

「夏の電車内あるある」だと思うのですが、毎年2回くらいはこういう現場に遭遇します。

多くの場合は次の停車駅で扉から逃げ出してくれることが多いのですが、今回は中々出て行かない上に生きがイイ!飛び回っていました。

「壁に止まったときに誰かが捕まえるのかなぁ」というくらいの気持ちで見ていたのですが…一向に捕まえる人が現れない。セミが元気良く宙を舞えば舞うほど、乗客は悲鳴をあげます。

こういう状況で僕はセミ側に同情してしまうんですよね。

迷い込んだだけで、なおかつ刺したり毒を持っているわけでもない。それにも関わらず、完全に迫害されています。ここは人間様の場所なんだよ!って。

「このままではかわいそうなので、近くにきたら捕まえよう!」

そう思うか思わないかくらいで、僕のお腹付近に着陸。素晴らしいタイミングでした。きっと僕に捕まえてほしかったんですね。

捕まえようと考えていたので、そのまま鷲掴みというか…捕まえましたよ。アブラゼミ。

駅を出たばかりだったので、セミには次の駅まで僕の手のひらに収まっていました。手のひらの中でも鳴こうとするのでずっと捕まえているのも結構大変なんですよ。そして、次の駅に到着し、野へ放ちました。

*  *  *

チャンチャン!と、まぁ出来事はこれだけ。

僕に突き刺さる車内の人たちの視線が痛い

さっきまでビクビクしながらセミを避けていた人たち。僕によってセミが飛び回らなくなれば、気が済むのかな?って僕は考えていたのですが…そういうわけでもなかったんですよ。

セミが僕によって捕まえられた。結果としてはこういう式が成り立つ。

【セミ=嫌、早くどっかに行ってよ。】

これが、

【セミ+僕=嫌、早くどっかに行ってよ。】

こういう変化。

さっきまで「セミ」に向けられていた視線は僕に注がれる事になりました。誰も喜んでないし、誰も安心していない。何なら、セミごとアイツ(僕)が降りて行けよ的な視線(笑)

セミを持っている僕はセミと同じ存在感なんですよね、彼らにとっては。

フフフ…今すぐにセミをそっちに向かって逃がしてやろうか?」って思わないでもなかったんですが、そんな事をしてはセミが可哀想なので、そんな事はしませんでした。

イジメられていた時の空気感を思い出した

この出来事の嫌だったポイントは、かつて受けていた「イジメ」を思い出したから。

何も悪いことをしていないにも関わらず、排除しようとする視線、空気。良かれと思った行動が全て否定される、あの感じ。

イジメの経験と置き換えて考えてみる

イジメに繋がる1つのケースを今回のセミの件とを照らし合わせて書いてみる。

  1. クラスで浮いている存在Aさん(セミ)。
  2. Aさん(セミ)が面白い人なので仲良くなる僕。
  3. 結果、二人とも浮いた存在とみなされ、集団の中から疎外されていく。

「浮いている」というのは周囲からの判断でしかありません。「浮いている」本人は何もしていない、ただそこに個人として存在しているだけですよね。

にもかかわらず、周囲は自分とは異なる思想・主義・趣味など何でもかんでも「排除」。

排除、排除、排除、排除…

こんな流れの図式、どこかで見てきたり体験している人って多くないですか?学校でも、職場でも、ご近所でも…(何なんだ、この世は)

「多様性」という言葉が市民権を得つつありますが…

この数年、多様性という言葉が多く使われるようになってきました。

実際に少しずつではありますが、性の多様性などが認められていく社会に動き始めたところではないかと思う。まだ動き始めた程度です。まだまだ、多くの偏見や排除・排斥が存在しています。

この虫が許容できないことと、多様性を許容できないことに関係があるのか?と思われる方もいると思います。話が飛躍しているように感じるんでしょうね。

各々が生きたいように生きられる。それを尊重する。それだけですよ。

無害な虫を嫌いというのと同じように、ただ自分らしく生きたいと思っているちょっと「浮いてる」人を嫌う人がいます。

嫌うじゃないですね。存在を否定する。

ただの偏見ですよね?

虫は文句を言わないからいいんですか?

根本がそんな考え方ではいつまで経っても「多様性」が許容される社会、誰もが生きたいように生きる世界が来ないんじゃないかと思ってしまう。

こういう小さなところから気づいていくといいんじゃない?

正直、僕が虫が大好きかというとそういうわけではない。ですが、嫌う理由もない。特に毒を持っていたりしない無害な虫を排除する理由もない

自分と異なるものは怖い。それは生物の本能として間違ってはいないと思います。思いもよらない危機から自分を守るため。

僕らは「多様」であることが「異様」ではないことには気づいているはずです。「理解」できなくとも「許容」はできます。そこに存在することを許せばいいだけじゃないですか。

少しずつでも、すべての生き物、考え方、人に対して、そうやって向き合っていく事が大切なのではないですか?

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書いている人

1983年製。3児の父親。レコーディング・エンジニア。休日や平日の早朝は、趣味とは言えなくなってきた30坪ほどの畑と、1反の田んぼで過ごす日々…(笑)
大好きなお酒から発酵文化に興味を持ち、米を作っているなら麹も!ということでマイクロ麹屋さんを始めました。どうなっていくんだろ、僕の人生。

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